鬼滅の刃(無限列車編に添えて・あざらしこじつけ編)
鬼は自分の闇の心であり、恨み、憎しみ、嫉妬、怒り、悲しみ、それらに巻き込まれ過ぎたり浸りきるような無意識で居続ける状態が鬼として描かれ、陽の光はあるがままを受け容れる意志であり、意志は愛そのものという前提に立てば、闇の存在もあるがまま受け容れる意志、その愛故に、受け容れられると、もうそれは影の存在としては成立し得ないため、陽の光を浴びることによって消えざるを得ない、あるいは変容せざるを得ない存在として鬼はその性格性を託されている。
その闇の象徴である鬼との闘いに呼吸が最重要視されているのは、闇の感情に巻き込まれることなく呼吸に意識を向け続けること。それは、仏陀が最終的に呼吸のみに意識を向ける瞑想に辿り着いたように、あるいは現代でこれ程マインドフルネスが各研究機関で、研究対象とされていることに、時代的な意味があるとしたなら闇の感情に巻き込まれることなく、その闇に囚われることもなく、呼吸を通して俯瞰することで、それをも自らが作りあげた幻想であり蜃気楼だと真に気づいた瞬間の象徴として、鬼の首を切り落とすという絶命行為に描写されていることへと繋がりを見ることもできる。
首以外を切っても直ぐに再生されることは、真に気づきが起き学びと実践が伴わなければ古き慣習の自身へと直ぐに立ち返ってしまう、それが瞬時の再生として描かれている。それ程にマイナーな闇の持つ力は強力だということを示唆している。
その鬼にも人間から鬼となることでの生きる背景が付与されており、そこを決して蔑ろにすることなく描ききることは、闇の心に支配されたかつての人間(鬼)に当然その責任はあるものの、汲むべき悲しみは見てとれ、そこにこそ慈悲が生まれ、闇に流れた心を単純に悪とは位置付けず、一つの物語として、こちら側(観客・読み手)に伝えようとする。
この鬼滅のストーリーは
一人の人間の成長という進化を通して、生まれ持った優しき慈しみという深みが更に増していく、その姿に同調する人間たちと、闇の心としての鬼が不死身の如く再生され続ける物語。
それは鬼と人間という分裂し対峙した物語というよりは、一つの心に巣くう闇と、その闇が陽の光という意志により影が消滅していく進化のストーリーとして僕の目には映った。
柱の一人、煉獄杏寿郎はその強固な意志故、闇の囁きに凛とした姿勢でブレなく生き抜き、全力でやり終えた人間として死へ向かうその姿は、陽光の美しさへと委ねられた。
また、底流に息づく骨太のもう一つストーリーは、鬼となった妹を元の妹として蘇りを共に生きようとする一心同体の兄は、全ての責任は自らにあると気づき、誰を責めることもなく家族へのお詫びと、その存在そのものに感謝する意識へと辿り着き、そこに恨みと憎しみを越え、その負の連鎖を断ち凛然と立つ一人の青年は、自らの家族から鬼も含めた縁ある全ての家族へと想いを馳せ、全てを受け容れていく慈愛の物語だとも言える。
成長していく過程として自らへの信頼が深まることは、仲間への信頼へ、周りへの信頼へと…そのままの相似として移送され、同心楕円上に拡がりを見せる主人公を含めた登場人物の魂の成長は、終わりなき旅であることをも、晴れ渡り澄みきった炭治郎の心は静かに語ってくれているのかもしれない。