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陽月院和尚(ミャンマー名:ガユーナ・セアロ) 


【陽月院和尚との出会い】
3月下旬、私は岡山のワールドハーモニー・テラさんに赴き、陽月院和尚さんと初めてお会いしてきました。約1時間にわたる1対1の対話の中で、初対面にも関わらず、かなりこっぴどくいろいろと叱られて参りました。あれ程までに叱られ続けた時間でしたが、陽月院さんから感じられる眼差しは私を責めているそれではなく、「私はあなたがあなたを愛しているよりも、もっと深くあなたのことを愛しているよ。」という、そのものだったのでしょう。いっしょにいられることがとても心地よく、その笑い声は、私の中にある滞った全てを解かしきってくれるようでした。是非彼の言葉に目を通してみて下さい。 (瀧本)

※以下、雑誌BE・ALL(ビィオール出版)NO.75より抜粋させていただいております。


陽月院。
ミャンマーの高僧からもらった名前である。
陰と陽の両方を知る者の意味である。
日本人でありながらミャンマーのお坊さんである。
その経歴は聞けば聞く程、人の人生というもののおもしろさを実感する。


≪なぜ、ガユーナセアロに≫
私は以前は料理人だったのです。18歳から入って43歳頃までやっていました。
お金が入り、地位も得ましたが、何か満足しないものがありました。
お金がいっぱいあっても満足しないことっていっぱいあるんですよ(笑)。
大金持で心が貧しいという人があるでしょう。
持ち慣れない金を持つと、人間ろくなことはありません。
私自身がその時は、その狭間にいたのだと思います。
そんな私がある日賢者に会いまして、私はその時、世のため、人のためにこの体を
お使い下さいと神様に言ったんです。
その2週間後には、この坊主の形になっていました(笑)。

これは変化というより、そうなってしまったという感じですね。
自分からこの形になろうと努力したことも、執着したこともありませんから。
もちろんこうなりたいとも思っていませんでしたよ。
そういう意味では、私はこの道に自然に入っただけなので、
全く苦しい修行もしていませんし、つらいこともしていません。
だからといって偉ぶりもしませんし、へりくだることもしない。
でも自然にその状況に入るということは、実は人間誰しもあるはずなんです。
草や木と同じように、人間の生き方そのものも自然であればいいんです。
他人からどう思われているのかを一切度外視すれば、自然になるんです。
人間はオギャーと生まれた時、自分の体に魂が入るんです。
その魂にとっては人間の最初の自分の肉体は、他人なんです。
ですからその肉体を嫌いになっている間はまだ、魂と仲良くなっていない証拠。
肉体と魂がうまくいきさえすれば、全ては自然に流れていきますよ。

ウ・パンノアというミャンマーの高僧から太陽と月の持つ男という意味の
”サンディ・マ”という名前をつけていただいたんですが、
彼に最初にお会いした時「よく来ましたね。待っていました」と言われました。
私が来るのがわかっていたんでしょうね。私自身がチンプンカンプンでしたけど(笑)。


 今の私は、神さんと人間は引っ付いているんだよということを、
皆に教えてあげたいということだけ。
この世は、科学で割り切れないところが神の領域であるということだけであって、
全てが科学で実証すれば、人間が神になれるんですよ。
しかしまだ今の人間は、科学で実証できないことは全て神秘なことにしてしまうから、
おかしくなる。知らないから神秘?
だったらなぜ不思議な現象と言うの?
現実にあったことだから、現象というんでしょう?
それならば不思議と言わないで、「理解できない現象」と言えばいい。
科学で割り切れないことが、全て錯覚というのはおかしいでしょ。
オギャーと生まれた赤ちゃんを、母親が自分の子と確信して愛するのと一緒なんです。
けれども目で体で確認するものがないと信じない人が何と多いことか。
自然に対しても同じです。
自然が自分にとって心地よかったら認め、心地悪かったら認めない。
それをみんな自分の感覚だと信じている。
しかし人間の主観というのは、本や何かで思ったものや聞いたものなど
、他人の主観を自分の主観としてとらえているだけ。
1+1=2と思い込んでいる。
けれど本当にそうなのかは誰も疑わないのです。

≪中道≫
たとえば、愛情はどんな形をしているか、好きという想いはどんな形をしているか
問われたら、どう答えていいかわからなくなるでしょう?
都合のよい内容は他人の言ったことをうのみにし、都合が悪くなると説明を求めようとする。そういう人間がまだまだ多い。
でもね、説明のできないその曖昧さがいいんですよ。
これから説明されるところだからね。
それまでその曖昧さを楽しみなさいということです。
”中道”とはそういうことなんです。
いいとか悪いとかは、立場が変われば皆一緒。
戦争をしている者同志が、自分の所こそ正義と言って人を殺している。
しかし本当の正義というのは人を殺さないことです。
真ん中の立場です。
もし人を殺さない人間が戦いの中に入ったら、その人こそ善で、
自分こそ善と言い合って殺しあっている両方が悪となる。
正しい人はおのづと中道を歩んでいるということです。

自分達が貧しいから、食えないからと言って相手を殺す。
自分達の利益が損なわれるから相手を悪者にするのが今の我々の世界。
ですが食えなかったら食べなくてもいいんですよ。
そして、その時その人に食べ物が必要なら、神の心を持った人がその人に与えるでしょう。
ミャンマーのお坊さんの中には50年間フルーツだけで生きているお坊さんもいるくらいですから(笑)。
無駄なエネルギーを使う必要はないんです。

 死ぬため、壊すためのエネルギーというのはものすごくいるんですよ。
地球破壊なんか最たるものです。
正義のために鉄砲を打ったり、ミサイルを打ったりして何を得ることができましたか?
苦しみのエネルギーが増えただけです。
しかし神様は苦しみも楽しみもあなた達が望めば与えるよと言っています。
お前が苦しみたかったら、どうぞ苦しみなさい。
お前に自由意志を与えたのはそういうことなのだよと。
楽しみたかったら、楽しみなさいと。
ただ都合のいい道と、正しい道とは違いますからね。
でもなぜか皆都合のいい道を行くんだね。正しい道ではなくてね…。

≪一番の宗教とは…≫
宗教にしてもそう。
どうも宗教家は自分の宗教を一番にしたがる。
そういう宗教ならいらないね。信仰家はいるでしょうけど(笑)。
ピラミッド型になってはダメ。
一番上も一番下もないんですよ。
皆一緒なんですから。
ただそれを知っているか、知っていないか、それだけのこと。
本来、宗教の一番最初はそういうことを言っていたはずです。
しかし宗教家になってしまうと、周りからどう思われているかが常に気になってしまって、
いい服を着たくなってくるんだな。お金もほしくなる。

ミャンマーでは皆貧しいので、子供達はお布施の代わりにウコンという植物を掘って
持ってきてくれたり、マッサージをしてくれるんですよ。
自分達のできる最高のものを、お互いにすればいいんです。
心なんですよ。
私は子供達にキャンディをあげています。
3週間断食している間、私の代わりに彼らが食べてくれていると思っていますから。
行くと50人くらいの子供達が、キャンディのお坊さんが来たと集まってくるんですよ(笑)。私も楽しいし、向こうも楽しい。それでいいんです。

≪満開の桜の木≫
今、あまりにも自分自身を愛していない人が多いですね。
周りから嫌われたくない、いい人でいたいという気持ちが強すぎて、
それが苦しみとなっている。
その苦しみは自分の心から起こっているもの。
自分を愛していない証拠なのです。
何とかしようとして、それが苦しみになる。
逆に我慢を美徳と思って我慢し続けると行ないそのものが苦しくなる。
それは本当の美徳じゃない。
我慢している自分を他人に見せたいだけなんです。
自分自身を全く大切にしていない。
大事なのは自分自身が豊かになること。
自分自身が桜の木でありなさいということです。
満開になることだけを楽しみなさいと。
桜の木の枝の下で花見をする人や、日差しをよける人がいても、
桜の木自体は何も感じていない。
でも自分の桜の枝を折って人にあげようとするから、
あげた自分の枝のことがいつも気になってしまうんです。
自分があげた枝をちゃんと使ってくれたら、私があげたからだと言い、
ちゃんと使わなかったら、あの人はダメだと言う。

ですからね、あげる必要は全くないんですよ。
自分自身が幸せを感じれば、周りに寄ってくる人も幸せになります。
あるがままでいいんです。
人はそれぞれが木。
桜もあれば、梅もある。
次ぎ木はできません。
真似もできない。


≪幸せになる秘訣≫
他人のエネルギーを取って幸せになることは、幸せではないんです。
その人よりよくなるということにすぎない。
今の自分よりよくならなければ意味はないんですよ。
幸せであれば使うエネルギーは少なくてすみます。

でも怒りは、その3倍も4倍もエネルギーが入ります。
疲れますよ。

でも楽しいことばかりだとエネルギーが余る。
その余ったエネルギーを人さまに還元するといいんです。
それは無意識にできる。
ニコニコ笑っている人の横で怒って歩く人はいないでしょう。
100人がニコニコしているところに入ったら、自然に笑ってしまうでしょう。
100人が怒っている所に入ったら、不安になるでしょう。
ですから皆、個々の人々が幸せの動機を持っていればいいんです。
本物はひとつです。

自己主義ではなく、自分を愛すること。
そして自分を愛する分、人を愛する。
そうすれば人は愛してくれます。
自然なる人は、そうならざるを得ないんですね。


≪人格環境≫
住む所について少し考えましょう。
誤解してはいけないのは、自然がよくて都会が悪いという構図。
森の中に入れば確かにうるさい音もなく幸せを感じます。
森が安らげる場所なら、都会も安らげる場所にできるんですよ。
同じ地球上ですからね。よく旅行で自然の素晴らしい所に行っても、
都会の中の家に帰ってくると、やっぱり家が一番とホッとすると言うでしょう。
そういう家は自然と同じなんですよ。

心の平安を得る場所は、道路であっても、会社であっても作れるんです。
都会も自然の一部です。
都会が安らげる場所になったら、環境は一発で変わりますよ。
都会から出る悪いエネルギーは全部消えてしまうでしょう。
人間の心はね、とても感性豊かなんです。
動物以上に鋭いはず。それを皆知っているんだけど、わかってしまうと
得にならないこともわかっているから、その事実を忘れているだけなんですよ。

これからは人間環境ではなく、人格環境が問題となってくるでしょうね。
個々の人格さえ確立できれば、環境なんて簡単によくなるはず。
もしも私が神さんだったら、もういっぺんやり直しをさせますね。
本質を見極めなさいと…。
人間はまだ完成されていないからこそ、その過程を楽しみなさいと。
だからね、完成されていないのに自分が一番だと言うのはやめなさいということです。

≪有の西洋文化、無の東洋文化≫
今年2000年になりました。
2001年から21世紀ということですが、何かおかしいと思いませんか?
この数え方は非常に西洋的なんです。
もしも東洋的に数えたならば2000年から20世紀ですよ。
西洋の人々にとっては、0は0。ですから0から100年の間は世紀はないんです。
0世紀とも言わないでしょ。でも東洋では0も数字なんです。
無から有、全てを我々東洋人は大切にします。
陰陽全部を大事にするんですね。
西洋的考え方では、無の世界から有が現れるということはありえないんです。
全てを科学で割り切ろうとする。
そうでなければ奇跡、ミラクルと言う。
彼らは好きなんですね。ミラクルが(笑)。
無理矢理、白黒はっきりする必要はないのです。
日本で昔からある”あ、うん”の呼吸が本当は一番大切なのです。
我々人間は生まれた時も一人、死ぬ時も一人。
裸で生まれて裸で死ぬんです。
自分自身をまず大切にすることを自分で良しとしたならば、世界は平和になります。
何が起きても、苦しみさえも楽しめばいいのです。

≪武士道の国ミャンマー≫
私はもっと日本はミャンマーと仲良くなって、どんどん交流するといいと思いますよ。
これからはアジアと仲良くしていくことが日本をプラスへ導くでしょうね。
ミャンマーはお金がないから、農薬も遺伝子組み替えの種も買えません。
しかし貧しくても彼らはとても信心深いのです。
人口の13%はお坊さんですから、施すという意識が根底にある。
もし彼らと仲良くなって農業用地をちゃんと整備すれば、相当な穀物ができると思いますよ。私はとても彼らが、ミャンマーという国が好きですね。
あそこ程、武士道の通った国はありません。
天然資源もいっぱいある。
国民はプライドが高く、信心深く、そして優しい心の豊かな人々です。
心の金持ちの国ですね。
ですからミャンマーと日本の橋渡しになればいいと思っています。
今度お寺を作る予定です。
200人の子供達の面倒を見させて下さいと神様にお願いしています(笑)。

≪絶対に手をつけてはならない場所≫
あっ、それと大切なこと。
熱帯雨林や原生林に絶対手をつけてはいけません。
あそこは地球の呼吸するところ。
アマゾンに手をつけてしまったから、病気が増えてしまったんですよ。
アマゾンにある薬草のエネルギーが地球を回ることで、病気が治っていっていたのに、
それらを切ってしまった。極論的に言えば人間は住むなということ。
熱帯雨林がとても重要なことに気づいている人もたくさんいる。
でも皆、何かを起こしても損をするからやらない。
もう本気でするのは国ではないね。
国の時代はもう済んだ。
個人個人でがんばってもらわないと。

≪最後に…≫
精神世界を物質世界より上だとか、そういう概念は捨てて下さい。
両方ともいいんですよ。
あなたが生きるのにどっちが生きやすいか、それだけのことで、
両方とも認めて正しいことをして下さい。

これで私の話は終わります。
皆さんがいつも平安でありますよう願っております。


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