あるがままとありのまま              2017年5月23日


あるがままとありのままは、とても似た言葉ですが、振動波で観じると確かに違う観じはするのです。どのような違いがあるのか、観じたままを言葉に換えてみました。


あるがままは、ベクトルが自分に向き、その自分を含めた背景の存在、現象までも含んでいる観じがするのです。

一方、ありのままは、自分には向いているものの、その自分にしかベクトルが向いていない、たとえ自分以外でも単体の存在や単体の現象のみにしか向いていないように観じられるのです。

その意味において、あるがままは多時元的、ありのままは単時元的とでも言えるのでしょうか。

以前にも書かせて頂きましたが、足立幸子さんが個展をされている時、見も知らない初対面の方が、幸子さんの作品を本人に向かって、どぎつい言葉でけなしたそうです。(側にいた幸子さんの友人の方から聞きました)

幸子さんは、黙って全てを聞き入れ反論も全くせず、被害者意識も垣間見せず、その後「ああ言うことを言わせてしまう何かが私にあるんだろうなぁ~」と、その友人の方に語って、その場の現象を拒否も否定もすることはなかったそうです。

【あるがままに生きる】を書かれた幸子さんの態度は誰をも、何をも否定せず、言い訳もせず、その状況、その現実を、そのまま受け容れたそうです。

ありのままは、自分自身にのみベクトルが向いてはいるので、英語ではgoing my way(我が道を行く・自分らしく)と言うような訳が振動波では合っているように観じられます、そして、それは“私の道”だけを指しており、自分だけ、あるいは単体の存在にのみフォーカスされている感が強いのではないでしょうか。

一方、あるがままは、let it beとよく訳されますが、それは、そのままの状態、(存在)であらせなさいと直訳もできることから、自分を含む存在そのもの全てを包括している感が強く、何か一部特定のもののみにフォーカスされているのではない状態と言う感がします。

幸子さんの姿勢は、その状況を総て包括的に受け容れたあるがままの態度、let it be,そのものだったのでしょう。

ありのまま、あるがまま、日本語としての言葉としては、大した差異はないのですが、振動波で観じるとそこには部分と全体とはまた、質を異にする違いがあるようにも観じられます。

信じると言う現象(頭)から信頼と言う現象(ハート)に深化のプロセスを辿るとしたなら、ありのままと言う“個”から、あるがままと言う“総て”に機は熟して行くのでしょうか。                      



(この文章を数人のお客様と友人にメールをさせて頂いたのですが、その友人の一人から返信をいただきました。シンプルでありながら本質を捉えている爽やかな振動波を観じられましたので、ご本人の了承を得てご紹介させて頂きます。)



数年前、アナユキがヒットした時、ありのまま、という言葉がとても気になっていました。そう、あなたが観じておられるのに近い、あるがまま、との振動波の違いのようなものを。
深く追究しないままにこれまで来てしまっていましたが、漠然と振動波の種類や量みたいなものが、あるがままと、ありのままではかなり違うような観じを受け取っていました。

もっと平たく言ってしまうと、“あるがまま”と“わがまま”があるとすれば、“ありのまま”、は、その中間的な感じ、気づきの段階の深さに、あなたが言われる様に、まだ自我を手放し切れていない、自分方向の利己的なものを観じていました。自分本位というか…

自然の植物はそこに存在していることがあるがままで、それは同時に周りのあらゆる存在との調和を生み出しているように思います。
対してありのままは、なんとなくですが、人に対してしか当てはまらない状態のような…

その存在そのものはその存在=人、にとって無垢な状態であっても、周りのあらゆる存在との調和の状態であるかというと、そこまでは至っていないような、、その意味で、あなたのおっしゃる単体という言葉はしっくりきました

今観じているのはそんな感じです
理屈っぽくなったね

ごめんなさい

考えず、また浮かんで来たら、またシェアさせてください。


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