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 「若きあざらし」  2006年 5月14日


 春。新しい生命がその新しい喜びを抱えて生まれてくる季節。
私も10年慣れ親しんだ居を移し、新しい住まいでの生活が始まりました。
その際、ものを捨てられない私にとっては様々な過去からの贈り物と対面することになりました。
その一つに17、18歳に地元の新聞の『ヤング落書き帳』という若者が意見を交換する処へ投稿し、掲載されたものがありました。
あの頃の私は何を考え、どう生きようとしていたのか……。
私自身の遠い記憶と共に“今”と変わらぬ何かと出会えた感を抱くことにもなりました。
若きあざらしの肩に力の入った息づかい。
“学び”という視座が育つ前、その言葉一つ一つは自らに言いきかせ、自らを問う、
そんな言葉の配列。少しばかり、若きあざらしと戯れて下さいませ。



「生きる義務もあるはず」 義矛務盾

 自殺、それは、いつの世であろうとも、いかなる雄弁家であろうと、大衆に正当化されることはない。それが世の常であり、本当でもあるのだ。太宰、芥川は自殺した。彼らは共通の事を本に著している。それは「人は生きる権利があるとともに死ぬ権利があるのではないか」と、いう意味のことである。
 また、芥川は著書「河童」の中で間接的に、生まれて来る事は、自らの意志ではどうにもならない事、そして、生まれてくるべきではなかった事を暗に示唆している。
 私は彼らの人間的思い入れを真っ向から否定できはしない。ただ、私は世を嫌悪して去った人々に理解していてほしかった事が一つある。義務がそれである。人は、いつの日か死を迎え入れなければならぬ義務がある。ならば、生きる義務はないのか。
 人が人として生を受けた以上、その瞬間から、どんな厳しい現実をも回避できぬ宿命と、命尽き果てるまでいきぬかねばならぬ義務がある。私はそう信じている。
 また世の中が矛盾しているのは当然である。それを形作っている人間自体が矛盾した感情を備え持った存在なのだから…。
 最後に、私は苦しみぬいて自殺した人を責めはしない。むしろ、いくらかの同情と寛容の思いで許容さえするのだ。これも人間としての矛盾した気持ちの一つだろうか。

1983年1月23日愛媛新聞より


「将来考えながら受験勉強を」


 勉強はゲームというセーラーさん、本当にそう思うことが正しいことでしょうか。ぼくは勉強にはもっと深い意味づけをすべきだと思うのです。「確かに受験は無意味だ。しかし、勉強には意味がある」これが僕の持論です。
 しかし、考えるに勉強とて、一つの契機にはなると思うのです。将来を考える……。受験そのものを考えた時、それはあまりに小さい。けれども、それによって自分は将来何をすべきか、そう考え、しっかりとこれがしたいと思えるものを見いだせたならば、受験は決して無意味な行為には終わらないはずです。
 今、受験生に大切なのは一時の心の負担を軽くする慰めの言葉を探し、つぶやくよりも、自らはなにゆえ、この行為に甘んじているのか、そして、受験というものの向こうに何を見ているのか、また何を見なければならないのかを真っ向から考え、受験勉強に処すことではないでしょうか。十五歳、いい時ですね、頑張ってください。

1982年9月17日愛媛新聞より


「深い感受性…それが青春」 
未熟者

 「青春とは何か」。これは難しい問いですね。しかし、僕たちの先輩方は、これに対して立派な回答を残してくれています。でも、それは決して僕たちの言葉ではない。僕たちは僕たちの言葉を知るために青春を生きる必要があると思います。
 ところで、シャワーな気分さん、人を暗くしているもの、何だか知っていますか。感受性です。そして、それが最も熟している時期が青春期です。この時期に日々の生活の繰り返しの中で、手ごたえを得ている人など、たとえいたとしても、僕には信じられない。それは、この時期は決して満足と妥協を知らない深い感受性を備えた時期だからです。いわば、青春期なるものは、行っても行っても行き着く所など知らない時なのかもしれません。
 今のあなたにできることは、目的を探すことです。何のために、何のために、という問いかけの中で、がむしゃらになることです。もしかすると、それはあなたを今よりずっと不安定な所に送り込むことになるかもしれない。が、しかし、それでも行動し、考えることです。
あなたの言葉を知るためにはーー。
 今の時期、安定と安らぎを得られることの方が、むしろ不自然なのですから。

1983年6月15日愛媛新聞より
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