自分との出会い… 2002年2月16日
私の通っていた大学は東京の町田という処にあります。
晩年足立幸子さんが住んでいた処も町田だと聞いています。
日本酒の好きだった彼女とどこか日本酒の美味しい店で、実は隣り合わせで飲んでいたりしたことも、もしかしたらあったのかも知れません。
私の通っていた大学は、実に面白い大学でした。例えば、同級生に50歳代の主婦の方や、現役看護婦さん、外国から来られた方々のガイドさん、東大に100人以上進学する高校を退学して大検を受けて入学してきた人たち、年齢も様々で、ニセ学といわれる学外の無断聴講生と実に様々な人々が入り混じった楽しくも自由な不思議なキャンパスでした。
そういえば私同様障害を身体に持つ方もたくさんいらっしゃいました。
その中で、同級生で現役の小児科専門の精神病院に勤務されている看護婦さんがいらっしゃいました。同級生といっても年齢は私より10歳程上でしたでしょうか。その方が私に次のようなことを言ってくれたことを憶えております。
「美術館に行って絵をたくさん見るといいよ。わかるわからないじゃなくて、ある絵の前に立ち止まり、その色使いそれだけで涙が出たり、ある1本の線、ある一人の人物の目、その前で動けなくなったり…。何も考えなくていいのよ。絵と出会う自分の感性だけに委ねてみればいいの。自分と出会うのよ。絵を通して…。」
当時私は、アメリカ留学を直前に控え、「アメリカに行ったら、たくさんの美術館に行きなさい」と勧められていました。
多くの絵を見たと思います。ニューヨークでは1人で美術館の中に1日中いたこともありました。美術館の中には、小さなBarがあり、少しアルコールを入れながら見るアートは楽しいものでした。
しかし、後に出会う足立幸子さんの絵ほど、私に強烈な印象を胸に刻印したものはなかったように思います。
前ふりが長くなってしまいましたが、今回のひとりごちることは、先の友人が伝えてくださった、自分の感性だけに委ねてみること、そして何かを通して自分と出会うということになりそうです。それはアートであれ、小説の1節であれ、自分だけが捉えた陽の沈む景色であってもいいと思うのです。
「浮浪雲(はぐれぐも)」というコミックは、ご存知の方も多いかと思います。ビートたけしさんなどが主人公の浮浪(はぐれ)さんに扮してドラマ化されたこともありました。ジョージ秋山さんという方が描いているもので、江戸時代末を舞台としてはいますが、ほぼ今という時代を捉えきったテーマ性をもったコミックです。第29巻に次のようなくだりがあります。
浮浪さんに影響を受けながら、2度の離婚をした若者と、渋沢先生という人の会話です。
若 者 「あの方にはかなり影響されて…」
渋沢先生 「あの方の影響を受けて失敗した人はたんとございます。それは
うわべを真似するからなんですねえ。」
若 者 「なに考えているんでしょうね、あの人は。」
渋沢先生 「たぶん、なにも考えてないでしょうねえ。
ただ海をみているだけ。海のことを考えたりしないで、ただ
海を見て いるだけ。それなんです、あの方は。分かります?
なにも考えないということは、無ですよ、無。」
また次のようなくだりがあります。
渋沢先生「あの浮浪という人は、いつもひとりなんですねえ。
ご家庭にございますときにでも、いつでも何処でも独りなんでご
ざいますよ。」
若 者「醒めているんでしょうかねえ。」
渋沢先生「いえ、そうじゃないんです。人間はねえ、本当にひとりにならな
ければいけないんです。
ひとりである人というのは依頼心のない他に求めない人のことで
す。
あなたはひとりじゃありません。ですから…いつも満たされない
んです。お嫁さんをもらっても、外へ女をこしらえてもねえ
…。」
若 者「あの人はあれで奥様を愛しているんでしょうかねえ。
女として、妻として。」
渋沢先生「あの方はそんな小粒ではございません。
神を愛するように愛してます。」
若 者「神を…。」
ひとり
単独でいるということと、孤独であるということには大きな差異があるように思えます。ひとりでいることを楽しみきれる方は、どこにおられてもなにをされても、今、平安の静けさの中に喜びをもっていらっしゃることでしょう。
足立幸子さんが究極の宇宙意識と名づけたたった1本の墨で描かれた線。
どのような形容もつくりごとになってしまう、ただ1本の線。
ただ海 ただひとり ただ1本の線
神を愛するかの如く
たどりついた愛
なにかを通して出会った自分
その向こうには、そのような香りが在るのかも知れません。
今日の私は浮浪さんを通して何かと出会ったようです。