『十二才』PARTU〜自我と死の向こうに〜
NINNA研究会より 平成24年秋号『にんなの風』寄稿 2012年11月25日
海を見ていた。その目に何が映っていたのだろう。海だけをその目は観つめていたのだろうか。
自宅からかなり離れた海辺のベンチに、その迷子になった、私は座っていた。
実際は意図して迷子となり、一人電車に乗り、海辺のベンチでずっと海を眺めていた。
陽射しの強い瀬戸内の夏の静かな海だった。
生まれて三年の時しか経ていない私が何故、独りで海にいる自分を必要としたのだろうか。
「75パーセント諦めていてください」そう主治医から母親に告げられた手術。
手術台に上り、『これでもう二度と目覚めないかも知れない』おぼろげながら、いやはっきりと12歳の私はそう観じとっていた。
死を現実に身近に置いた瞬間だった。
自我の死に怯え続けた私が、手術台のライトをぼんやりと眺めながら、『自分と言う存在が居なくなってしまうこと』に、何の恐怖も感じなくなっていた。あれほど死を身近に置きながら死への恐怖も無く、生きたいと言う欲望も無い、全く何も無い、空っぽな時間。真っ白な時間。生まれて初めて味わう平安な時。
中学に進む私は左半身マヒと言う新しい身体となり、友人の多くいる中学に行くのではなく、誰一人知り合いのいない、身障者が通う養護学校へと進んだ。
退院翌日の入学式、まだ身障者と言う自覚が全く芽生えていない私には、周りの障害者と言う人間が、あまりにも奇異に映り、スクリーンを見ているかのようで、その場所に登場している現実の自分を信じきれずにいた。ただ呆然と…
身障者となり養護学校で過ごした二年間は、私にとって、とても意味深く貴重な時間だった。
脳性マヒの子供が大多数を占める、その場所は、当初、私にはとても受け容れられるものではなく、入学式で母親と祖母が流した涙のその延長線上に私の意識もあった。
『何で自分がこんな場所にいなくてはならないのか・・・』と。
生まれながらの重度、中程度の障害を持つ彼らと、子供同士として心を通わせるには、さほど時間を要しはしなかった。
全く奇異に映っていた彼らの存在は、距離が近づくと、健常者と呼ばれる小学生時代の友人達と何ら変わりはなかった。
『障害者の心理を知りたいのです。将来彼らに関係する仕事に就きたいから』
大学の精神分析の授業で、そう質問した学生がいた。
「障害者の心理って言ったって…君と同じだよ。‘普通’だから・・・。障害者には障害者として特別な心理状態が存在すると思っていること自体、実は君自身に障害者に対する差別意識がある。障害者の意識と我々の意識に、何の違いもないよ。‘普通’だよ。」
『全ては幻想』と語る、岸田教授はその質問の学生の障害者に対する幻想を静かに、ほどいていかれた。
私が体験して気づいたことを、教授は、さも当たり前かのように、何の力みもなく話されていた。
養護学校での二年間は、自身が障害者となった自分を自覚することで、私自身が障害者に抱いていた思い込みを平らかにしていくに必要な時間でもあったのだろう。それは、同時に自他が持つ思い込みや先入観の、いびつ性を障害者と言う目から体感していく時間でもあったのではないだろうか。
この後も私は障害者になる前と同じ‘普通’の意識で障害者として生き、大学時代には単身アメリカに留学し、そこで現在の事務局長である、二十歳の藤井美香さんとも出逢うことにもなる。
アメリカでも様々な体験をさせて頂いた。
ホストファミリーの高校の卒業式にも出席させて頂き、彼らの持つ底抜けの明るさと同時に、三年間共に学んだ障害者の同級生達に対する、自然な思いやりも見せて頂いた。
三歳の私が観ていた海の景色、それは海の向こうに、これから綴られていく体験と言う生きていく時間、『寒き道』を静かに独り座り、観じていたかったのだろうか。
そして、12歳。手術台のライトの向こうに観じた真っ白な平安な時。『寒き道』を自らが選びとり、歩む意志の中、自我の死が真実の‘死’ではないことを知った時、それは、いつも“そこに在る”ことを、あの時の瀬戸内の穏やかな海は、三歳の私を通して、その後の私に、静かに伝え続けてくれていたのかも知れない。
数時間後、ベンチに座る私を見つけ泣きながら駆け寄り、叱る祖母や母親に三歳の私は、こう言っていた。
「もう、終わったことだから…」
そう語った幼き目は、その海に、『寒き道』の向こうに、何を観ようとし、そして、何を観終えていたのだろうか…。(終)