『十二才』〜自我と死〜 NINNA研究会より 平成24年春号『にんなの風』寄稿 2012年7月7日
私は、12才で障害者となった。冬の日曜、ラジオから流れる音楽を聞いていたその時、突然激しい痛みに襲われ嘔吐を繰り返し、意識を失った。
この後、私は、当時日本で数人目、成功率の方が少ないと言う手術、視神経の側にある血管の手術など計3度に渡り、25時間以上に及ぶ手術を受け、36年後の今、私はまだ、母親や祖母が一度は諦めたこの生を生かせて貰っている。
脳内出血で倒れるその6年前、私の体調のある異変に気づいた祖母が病院へ連れて行き、急性腎不全と言う病名が告げられた。即、日赤の小児病棟に入院することとなった。
もう遠い記憶となってしまったが、私にはこの世に誕生した瞬間の記憶がある。
生まれて来た感覚は、『嬉しく喜びに満ちた』というそれではなく、『またこれか』という諦観にも似た感覚を抱いた事が、深く印象付けられた記憶として刻まれている。
私は、3歳当時には、問い質せそうな大人をつかまえては、「死んだらどこに行くの?」と繰り返し訊いていた。
生を受けて3年程しか経っていないにも拘らず、その生を受ける前に居た時空の記憶は、すっかり無くしてしまっていたのだろう。私は、先の質問を執拗に大人に問い質した。しかし、誰一人幼な子の訳の分からない戯言に、真摯に向きあってくれる人はいなかった。
そのように心の内に密かに闇を抱えながらも、私はそれなりに朗らかに育ってもいた。
3ヶ月に及ぶ腎不全での入院中、アポロ11号の月面着陸が放映されていたその日、私は、病室に祖母が買って来てくれた電車のおもちゃで遊んでいた。
先生、看護婦さん、大部屋の患者の子供達が興奮し、画面に釘付けになっているのを横目に私は、電車のおもちゃで遊んでいる方が、月面に人が降り立つ歴史的瞬間よりも楽しかった、と言うより重要だった。
何故なら、私には無邪気な子供でいられる喜びの方が大きかったからだ。
入院中、色んな景色を目撃することになる。昨日まで元気だった子が、今日はぐったりとなり点滴を受けている。元気に退院した子がおばあちゃんに背負われ、脱力しきった状態で、再入院してくる。
そのような景色を毎日のように目撃しながら、私には、「死ぬとは何なのか」「死んだらどこに行くのか」と言う思いが、再び激しく沸き起こってきた。
消灯をとうに過ぎた暗闇の中、ある日の夜、私はその思いに全身を包まれ、眠れずにいた。
その時ふと、『死んだらこの真暗なまま、何にも無くなる、今こうして死ぬことを恐がっているこの時間さえ、もう二度と無い、二度と生きれない』私はそう感じ、その恐怖に耐え切れなくなり発狂し、「うわ〜っ!」と叫び、カーテンを引きちぎり、止めれるものならこの時間を止めたいと言う衝動をかろうじて抑えていた。
枕元のベルを押し、「眠れない…・」とだけ伝え、看護婦さんに手を握ってもらいながら…・。
この当時の私は、死が何か、と言うことを感じていた訳ではない。直観として、死を観じていた訳でもなく、今思えば、この瞬間と言う時空を二度と生きれない、と言う恐怖にただ、おののき、焦り、うろたえていたのだろう。
ただ、その焦燥の果てに行き着く到着点が死だという事は、かなりはっきりと感じていたのではないだろうか。5才の私は、『自分』と言う意識が、確実にこの瞬間瞬間消えていく方向にあると言うことを恐怖だと認識していた。
チベット仏教では、呼吸をlittle death(小さな死)と呼ぶが、一つ一つの呼吸が小さな死の連続であると感じとっていたのだろう。
こう見てくると私は生を受けて5年後には、失うべき自我と言う意識をはっきりと自覚していた事になる。
自分だと思い込んでいるものを失う恐怖が、死の恐怖の一面だとしたなら、私はこれが自分だと思い込んでいるものを、既に体得していたのかも知れない。
私の6歳に満たない病気の体験は、かくして自我が消滅していく恐怖をただ感じ、怯え続けると言う体験であった。私が、この体験から何を学んだのか、それは40年以上経った今でも分からず霧の中にある。
そしてこの6年後、私は脳動静脈瘤と言う病に倒れる。
野球選手になることだけが、唯一の希望だった少年は、極めて稀有な体験を積んでいくこととなる。その時私は、全く別の身体、左半身マヒの障害者となり、新しい生を生きなければならなくなる。
それは、自我の消滅を死として恐怖し続けた幼な子が、死と向きあい、死を受け容れざるを得ない体験と、未知の新しい身体との出会いを余儀なくされることでもあった。
『 山びこに 打たれて通う 寒き道 』
10才当時、私から生まれた句である。脳内出血の2年前、未来の道程を暗示するかのように詠まれた句。実体無きものに打たれながら耐え続け、しかし、たとえそれがどんな道であろうとも、歩んでいこうと言う意志は伺える。
寒き道、それがたとえ寒き道と知りながらも、歩む歩を止めようとはしない心根。
実体無き山びこ、その山びこは、私自身と言う実体から発せられた私の影そのもの。
自らの生に打たれ続けた被害者でいたいと願いながらも、被害者などどこにもいない事を知ってもいる。
歩み続ける意志だけは携えながら、寒き道は運命ではなく、真に私自身が必要としたのだと認めるには、当時の私にはまだ時間が必要だった。
被害者で居続けると言う甘美な自意識に、まだしばらくは酔っていたかったのだ。
自我の死に怯えながら…・
瀧本 太造