『自分の感受性ぐらい』             2012年1月1日


こんな時代です。そこらじゅうがマイナーです。ただ私たちはそれを十分承知の上で
この惑星に逃げることなく、避けることなく、産声をあげてきたはずです。
だからどんなことがあろうとも、決して周りのせいにはできないはずです。
自らがその場所、今いる場所を選んでいるのですから。

周りを自分が変えれる存在に…それがファルフ(蘇生化装置)となられた方です…
進化と深化をただ繰り返す本気さがあれば、それでいいだけなのではないでしょうか!
周りのせいにする、その“甘え”を排する覚悟があるかどうか、ただそれだけなのではないでしょうか!

これは先日、ある方に送らせて頂いた文章の一部を抜粋したものです。
自動書記のように綴られた文字の配列です。
紛れもなくこの文章全体は、自ら自身へのメッセージ、そのものでもありました。
そして、数日後、次の詩と巡り会うこととなります。
自身への言葉は更に深淵さを湛えて、これほどまでに、外連味(けれんみ)のない
振動波として伝えてくれる詩が準備されていたと言ことなのでしょうか。


茨木のり子さんの詩です。
僕の胸には深く刺(とげ)のように刺さる詩。それでも爽やかな痛み、清々しい痛みを伴う言葉。
その本気さを携えた意志のみが持つ、削ぎおとされたシンプルなフォース(気力・迫力)を
観じずにはいられないのです。
心の奥にあるこの鈍い痛みと清々しさは、皆さまと共有させて頂けるものなのでしょうか


「自分の感受性くらい」

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて


気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか


苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし


初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった


駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ


2006年、自宅で脳動脈瘤破裂によって急逝した彼女を、
訪ねてきた親戚が発見したようです。
きっちりと生きることを心がけた彼女らしく、遺書が用意されていました。
「私の意志で、葬儀・お別れ会は何もいたしません。この家も当分の間、
無人となりますゆえ、弔慰の品はお花を含め、一切お送り下さいませんように。
返送の無礼を重ねるだけと存じますので。“あの人も逝ったか”と一瞬、
たったの一瞬思い出して下さればそれで十分でございます」
享年79歳。


昴の木 瀧本太造