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「我慢と忍耐」  2007年6月5日


友人から我慢と忍耐の違いについて聞かせて下さい。とメールをいただきました。それにどう応えさせて頂けるのかわかりませんが、次のような言葉の配列が、今の私の我慢と忍耐に関しての認識です。

我慢は自らの欲望や興味関心を満足させようとした時、それが何らかの理由で実行しない方を選択した時、我慢つまり、それを本当はしたいんだと言う欲望を抑えこんでいる状態ではないでしょうか。したがいまして、そうしたいと言う強い思いは依然としてマグマだまりのように残ってはいるものの、それが周りの状況や都合あるいは秩序や法律などで、その欲望を実行しなかった、あるいはできなかった時の状態が我慢と呼ばれるものだと観じます。
ですから我そのものを抑えこまなくてはならないため、マグマが噴火口から噴出できないとき、違う場所から噴火してしまうように、我慢している状態は自らの欲望がなくなってしまったわけではないので、いずれ必ず他の場所を探して噴火しようとします。
時には形を変え、あるいは叶えられなかった欲望が増幅して、何倍もの力で噴火してしまい、リベンジ(復讐)のような形をとることもあるでしょう。
こう観てくると我慢とは自らの欲望に対して無自覚に巻き込まれている時、とりあえずその欲望を一時的に抑えこまなくてはならない時に我慢する状態は起きてしまうのではないでしょうか。

 一方で忍耐、耐えると言うことは全くの反意語的振動波ではないでしょうか。
耐える状態と言うのは、その状況をあるがままに受け容れ、その状況が何故自分に起こっているかと言うことが顕在意識では自覚されなくても、その状況が自分に起こる意味合いに深い信頼と自覚があり、その状況をあるがまま、なるがままに受け容れ、『ただ耐えるだけ』そういう状態を示しているのではないでしょうか。
    生前、足立幸子さんが初対面の方にどうしてそこまで言われなくてはならないの?と言うような酷く痛烈な言葉を浴びせられたことがあると幸子さんの親友の方から伺いました。その時幸子さんは一見理不尽なその初対面の方の言葉と態度を黙ったまま聞き容れ、「ああいうことを言わせてしまう何かが私にあるんだろうなぁ」とその場におられたその親友の方に語られたそうです。
この状況で幸さんが初対面の方の理不尽な言葉に腹を立て、我慢している状態であれば、その方にマイナスのエネルギーが向き、いずれリベンジ(仕返し)をしてやろう、と言う意志を持っていたか、ストレスとして抱えてしまい、そのエネルギーをお酒か何らかの刺激で一時的に麻痺させる選択をしたでしょう。
あるいは、意識の段階が違うからと、上からの目線でその方を下に見て自らのプライドを保とうとしたでしょう。しかし、そういう状況に幸さんが出会ったと言うことは出会う必要があったのでしょう。同調せざるを得ない何らかの理由があったのでしょう。幸さんが観じていたように…。
そして、幸子さんの態度は深く自覚された方のそれでした。
理不尽に見えるその方の態度が決して理不尽なものではなく、自らの内側にその理由を観じ、彼女の状態をあるがままに受け容れられたのです。そこには、自らの人生を深く信頼された方としての自覚された方の態度があり、自然の仕組みにとって偶然、たまたまはないこと、無駄がないことに深く気づかれていたのでしょう。

  昴の木のスタッフであった(今も違う次元でのスタッフだと観じていますが…)谷岡は自らのボディの終焉、死を前にしても、ひとつひとつの呼吸を丁寧に懸命にされていました。
呼吸が苦しいなか、酸素マスクを外し「ありがとう」と病室を後にする僕達に信じられない程の大きな声で伝えてくれました。その言葉が谷岡から贈られたボディを持たれた最期のギフトとなりました。
その状況で誰かを恨み、何かのせいにされることなく、顕在意識では理解できなくても、病気と言う状況をただあるがままに受け容れ、『ただ耐える』その真摯な生き方を彼女は観せてくれたのでしょう。その状況時に足立所長からも「立派です。立派に耐えられています。素晴らしいシフトをされています」そう伝えられました。
 
 人生とはただ耐えなくてはならない瞬間があるようです。最期の瞬間であっても、その時に自然の仕組みに対して深い信頼が起こっている方はただ耐えている瞬間にも、その方の時空元において高く、深い意識への変容が起きているものなのかも知れません。
谷岡の「ありがとう」と共に遺してくれたものは、私には限りなく『耐える』と言う意味『忍耐』と言う意味の奥深さを伝えてくれるものでした。
我慢は余計に自我を増し、耐えることは、それが極限であればあるほど、自我がそのまま自然の仕組みの意志に沿った宇宙の意志そのものへ溶けていく瞬間の体験へと昇華されていくものなのかも知れません。そんな体験をさせて頂けるボディを先祖や両親の協力によって今ここに提供して頂いていること、
その恩恵に満ちたボディを通して学ばせて頂けることに深い感謝と仕合わせを観じずにはいられないのです。

ありがとうございます。昴の木  瀧本


お客様からの返信
(参考になればと観じます。)

何とも表現しよがないくらいの究極のメールを頂いた気がします。
ボディを持たせて頂いている事の幸せと、それによって体験できる事の有り難さが、こんなに深く表現されていることに言葉が見つかりません。    
  私は日頃、我慢には慣れてしまってマヒしている状態を続けているのに気づかずに何年も生きてきました。全てを何かのせい誰かのせいと自分を観ることから逃げていました。周りに起こる現象をあるがままに観つめ、受け入れるなどとは思いも及ばないくらい、自我を拡大し、抑圧していたように思います。それは、一見穏やかで良い人に見えますが、中身は全く逆にマイナスを増幅していました。自分に現象を起こす種があることには全く気づかずに過ごして、瀧本さんのメールにあるとうり、抑圧すればどこかではけ口が必要になってきます。顕在意識でばかり考えようとすれば、当然自分に都合よく解釈してしまいます。幸子さんのお話のように、奥深くにある起こさせる原因が自分にあると、素直に謙虚に受け入れ、その現象に感謝できるよう自分を観ていきたいと思います。
瀧本さんのメールによって、  忍耐は宇宙語だと、足立育朗さんがおっしゃった言葉の意味が解ったような気がします。
又、谷岡さんの生前を知っている一人として、谷岡さんの言葉や姿は今も私の中に生きているように思います。ありがとうございました。



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