「感謝の記憶」 2007年4月5日
(自分にはまだ感謝が足りません。眠りにつく前に、ひとりひとりを思って感謝を向けていってもいいでしょうか?と言う質問をいただきました。それに応えたものです。)
感謝が足りないと観じられたのなら、それをそのまま受け溶れればいいのではないでしょうか。それ以上でもそれ以下でもない、それが今の貴方のあるがままの状態なのですから。ひとりひとりを思って感謝を向けることも大切なことだと思いますし、必要な時もあると観じます。
ただ、よくお伝えさせて頂くように私達の感謝は多くの場合、都合を伴ってしまうと言う性質があります。そして、その都合は本人には死角になっている、言い換えれば、自分にとって都合はあくまで都合ですので、本質的な意味では、何が都合がよくて、何が都合が悪いかと言う視座自体が育ってない場合がほとんどなのです。
ですから、自分では凄く感謝を向けておられるつもりでも、自分にとって自我やプライドが痛まない、傷つかないことに感謝を向けられてる場合がほとんどとなってしまうのです。
情報では、感謝とは本来自分にとって都合の悪いこと、都合を超えて感謝が起きること、それが感謝だと言うことです。
何故感謝“する”のではなく、“起きる”と言う、一見自らの意志とは遠い関係に思える言葉が適当かと言うと、感謝とは本来自然に沸き起こってくるものだからです。
ですから、感謝を向ける。感謝をする。と言うのは、まだ感謝が自然と沸き起こってきている状態とは言えないのです。その状態が悪いと言うわけではないのです。
では、どのような意識であれば、感謝が素直に自然に沸き起こってくるような状態になるのでしょうか?それは、人や状況に感謝を向けるのではなく、学ばせて頂いていてること自体に感謝を向けていかれると、全ての瞬間は学びの連続でもあるのですから、全ての瞬間瞬間に自然と感謝が向けられる方になられるのだと観じます。
この宇宙は愛と調和と感謝で構成されていると言う情報を当初、足立所長は伝えて下さっていたのですが、そこに“学び”が足りなかったことに後に、気づかれることになります。
“愛と調和と感謝そして学び”と言う振動波で宇宙は構成されているようです。
そして、私達も宇宙の一部でもあるわけですから、本質的には愛も調和も感謝も学びも深い部分では既に知っている、記憶しているのでしょう。
ですから、本来は感謝は向けるものではなく、私達の存在そのものが実は感謝そのもので満ちていることを思い出すこと、その状態が自然になればなる程、私達の深い記憶としての感謝は誰かに向けるものではなく、呼び起こされ、呼び醒まされる状態が自然だと言うことに気づかれるのではないでしょうか。
起きた現象から何を学ぶか、何を学ばせて頂けるのかを深く自覚され、決して現象そのものに囚われることなく、その現象を通しての深いメッセージ性に意識を向けられ、現象を通して、人間関係を通して、学ばせて頂いているそのことに感謝を向ける。
それによって、どんな瞬間、マイナスに見える現象にすら、いえだからこそ、そこには都合を超えた、深いメッセージが横たわっていることに気づかれ、そのメッセージに触れ、それを受け溶れさせて頂く、全てが学びの連続であり、学ばせて頂いてること自体が感謝の連続でもあるのです。
当然のことながら学びに休日はありません。ONとOFFはないのです。絶えずONなのです。
その学びに感謝が絶えず伴うわけですから、感謝にも休日はないのです。
今日はそういうことを忘れていいと言う日はないのです。
ありがとうを自らの都合を超え、学ばせて頂いている状況そのものに向けられるようになられた時、私達は自らの存在そのものに組み込まれた感謝を思い出した人間として、絶えず感謝を表現発振し続ける存在となるでしょう。
そして、感謝はただ、ひとりひとりに向けられることを超え、自然と沸き起こってくる存在として私達は生きること、そのあるがままを観つめ続ける人として深い自覚を携えていくことになるでしょう。その上で、感謝には絶えず心からのお詫びが表裏一体となっていること、都合を超えたお詫びができる素直で謙虚な状態から自然と学びに感謝が伴っていることを思い出されるのでしょう。