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「仕合わせ・幸せ・しあわせ」  2007年3月22日


私はしあわせと言う字に「仕合わせ」を充てます。

そのことで、先日ある方から仕合わせと幸せはどう違うのですか?と尋ねられました。また、「自分の考え方の基本は幸せになること、そして、自分が幸せになるためには周りに幸せになってもらわないと困る」と言う考えを持たれてる方から、このことについての整理がまだきちんとついてない、どう思いますか?と言うメールを頂きました。         

 私には私なりの仕合わせを充てる理由があるのですが、とりあえず広辞苑を見てみました。
《広辞苑では仕合わせはめぐりあわせ、機会、天運、なりゆき、幸運、さいわいなどのようです。
幸せは幸運、さいわい、好運などです》(また合わせると言う意味から人と人が合った時にしあわせが生まれると言う考えがあったようで、昔の日本では仕合わせと表すのが一般的だったようです)       

 昴の木のホームページのお話しの『競争と調和』でも書かせて頂いたのですが、人には生まれた時からその奥深くに埋め込まれている創造力と言うものがあります。
それは受精の瞬間に既に埋め込まれ、体験してしまったものなのです。ふたつの調和がひとつとなり、新しい調和を創造する、私達は生まれながらの調和に満ちた申し子なのです。誰一人例外なく。
そのことを更にこのボディをお借りして体験し、味わい、学ばせていただくと言うことなのです。
家族で愛情を体験し、愛へと昇華還元されていく、そのプロセスが人が生きると言うことの意味だと観じています。
 ですから、私達は生を受けた瞬間、受精した瞬間に大きく、精妙な調和を体験してしまっているのです。生まれ、体験させて頂き、いろんな多種多様なことを味わわせて頂けること自体がもうすでに仕合わせそのものなのです。
 仕合わせとは広辞苑にもあるように、めぐりあわせと言う意味もあるでしょう。人とめぐりあい、体験し、味わい、学べるのです。そして、それが受精時に体験させて頂いた調和から発展し他者を通しての調和を体験し続けて行くことが本質的な意味として、人が生きると言うことではないでしょうか。

 幸と言うとやはり幸運(ラッキー)と言う意味が内包されていると想起させてしまうのではないかと感じます。人は生まれる前の受精時から、十分に幸運なのです。何億と言う中から勝ち抜いた、たった一個の精子と卵子が結合した奇跡からではなく、戦って勝ち抜いたのではなく、最も調和のとれた精子と卵子が結合して更なる調和を創造する体験をしてできたボディをお借りできていること自体が幸運過ぎる程幸運なのです。
 そして、それはとてつもない確率が出合わさって生まれためぐり合わせであり、仕合わせそのものなのです。当然なことですが、宝くじが当たることが本質的な幸運ではないのです。
ラッキーもアンラッキーも私達は体験し、味わえる、そしてそのことから学べること自体が、繰り返しになりますが、もうすでに幸運なのです。
 人生にとって都合のいいことが起こることを一般的にラッキーと呼ぶなら、それはあまりにも見える現象にとらわれ過ぎている態度ではないでしょうか。
よくお伝えさせて頂くように、自分にとって不都合なアンラッキーなことが起きた時の方がより学べるのなら、こちらの方が本質から見た場合ラッキーだと言うことも成立するのではないでしょうか。
ただラッキーもアンラッキーも現象が自分にとって都合がいいか、悪いかと言うことでしかありません。本質から見た場合、都合は関係ないようです。
人とめぐりあい、物と呼ばれるものとめぐりあい、出合わせて頂き、学ばせて頂き、気づかせて頂いたことに意味があるのだと観じます。

 また、私もそうですが生まれながら、または幼少期に難病《国指定の難病と言う意味ではないので重病の方が適当かも知れません》(私事ですが、僕は12歳時に脳動静脈瘤と言う病気になり、当時日本で5人目、成功率25%と言う脳の手術を含め、計3度の脳外科手術を経てきています。)や障害と言われるハンディキャップを持たれてる方も、健常者と呼ばれる方々と同じく、受精の瞬間にきちんと調和の体験を、その深い意識に刻み込み産まれてこられています。
 難病やハンディキャップを持たれた方々に情を持って接するのはある意味でこの文化の中では自然な行為と受け取られるでしょうが、彼等はボディを通して、肉体そのものにダメージのプログラムをすることで、ただ肉体を持って生きると言う行為だけによって、その介護をされたり、周りで情でその方に接している方よりも、実は遥かに深遠な調和の体験を限られた時間の中、幾重にも積み重ねられた学びをされているのです。
 彼等は強い魂の方々だと言われることがよくありますが、強い、弱いではなく、調和そのものを肉体を通してひとつひとつの呼吸や所作から学びきろうとする、その本質の意志、それが周りにも自然と調和することの意味を伝え、意志(情報では、意志=愛)を持って生きるその姿から愛そのものを学び、表現しようとされる深い意識と意志が生そのものに宿る美を伝えくれようとしているのです。
難病であっても、重度のハンディキャップを持って生きていても、健常者と何も変わることなく、ただ遠い記憶として、受精時に埋め込まれた調和と言う体験の相似形を学び続けていくだけなのです。
《私自身が幼くして病になり、障害者として生きることになったために、これまではこの種のことはあまり語ってはこなかったのですが、今日この機会に少し触れさせて頂きました》
 したがいまして、人としての存在そのものが、幸せも仕合わせも既に内包していると言うことなのです。外側の幸運な現象によってしあわせにはなるものではなく、内側の例外なく存在しているしあわせに外側の旅(難病を通して、ハンディキャップを通して、家庭の事情を通して、様々な人生を通して)を通して気づいていかれることが目醒めた方の人生の態度なのではないでしょうか。

 そして、それはあまねく平等に人間と言う存在に内在している仕合わせであり、この惑星での究極のアートが人間そのものであると言う情報に沿えば、そのアートを更に調和と言う色彩でどう描いていくのか、それが私達ひとりひとりがアーティストでもあると言うことを意味しているのかも知れません。


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